「奇子(あやこ)」って名前よくつけるよな。


※手塚治虫大ファンの人はみないでください。

 手塚治虫って面白いと思います?
 私は思いません。
 でも何故か
「ブラックジャック」「どろろ」「奇子」「ブッダ」「陽だまりの樹」が家にそろってたりします。まあ半分は私のじゃないですがね。
 ブラックジャックは最近のOVAを見て「面白いじゃん」と思って買ってしまったんですよ。────しかしながら、ありゃ駄目だ。アニメの方が数倍面白かったですよ。
 どろろはある人の影響で買ったものです。読んだらただの妖怪漫画でした。もっと深い何かがあるのだろうが、それは置いといてとりあえず妖怪漫画だろうなと思った。あと、マダラってこれのパクリじゃんと言うことに気付いた。
 そんで奇子なんですよ(他二つは私のじゃないんで)。
 上記のぶんしか見たこと無いくせに、面白い面白くないの難癖つけるなんざあ言語道断だと思ってる方もいるでしょうが、これだけ読んでなんの魅力も感じないってことは、私にとっては所詮そこまでなんですよ。
 それよりも、手塚治虫ってある意味ちょっと怖い。
 それが「奇子」に如実に表されてしまった。
 今回は手塚さんのなんか陰気でじめじめしたっつーか、戦前生まれの閉鎖的社会で育った人なのだなあ…という点を考えてみたいと思います。
 まあ、私の妄想なんですけどね。


 
ブラックジャックも考えてみれば変な話だ。
 あれって、私のイメージとして、
「悪徳医師のフリをしたもぐりの医者が金をもらっていろんな病気とかを治す。けど、悪者とか理不尽なこととかあると怒り出して悪者を成敗する」みたいなとこあるんですよ。
 一種のヒロイックファンタジーみたいな。
 けど、実際は違うじゃないですか。アニメがそういう印象だったからかもしれないけど、原作としては単にこの人理不尽な人だもん。
 確かに、世の中の理不尽さに怒り、嫌な奴がいれば叩き潰した。けど、それ以上に彼の行動には一貫性がない気がしません?要するに、自分のしたい通りにしか動かない、我儘男。そんな態度でも腕はいいから文句はこない。そんな感じ?
 
MIND ASSASSIN(かずはじめ/集英社)における「奥森かずい」もこれに似たとこはあるけど。かずいは、当初はそこまで気にしなかったけど、最後あたりは「俺様の気に食わないからぶっ殺す」的な部分があった気がして。おまえ、そりゃ違うだろ、とちょっと思いました。明稜帝悟桐勢十朗(同上)もね。まあ後者ははっきりと最初から「理不尽な人」が主役だったから気にならなかったけど。
 まあブラックジャックとしては、「なにこいつ」という感じしました。そこが皆さんには良かったのかもしれんが、私はなんか違うと思ってたので。
 まあ、この人、子供の頃に不発弾が爆発して母親を亡くし自分も死にそうになり、助からないだろうと言われてたところを名医の外科医に助けられたとか、自分の庭にあんなもん埋めた憎い大人4,5人を探してぶっ殺したいとか、そんな暗い過去もあったわけで、その辺にまつわる話は良かったですけどね。彼の顔につぎはぎがあるのは、あそこの部分に移植する皮膚がなかったんで、黒人の友達にもらったらしいのですが。いい話です。でも総合的には理不尽満点な漫画でしたよ。結局復讐相手全員見つかってないし。
 
「どろろ」はまあ、可哀相な子供でした。百鬼丸は輪をかけて可哀相でした。けどね、これって痛快妖怪漫画なんでしょ?戦は悪いよね、とか悪徳代官悪いよね、というとこも含めつつ。
 大体自分の権力守るために、我が子を鬼に差し出して108個かなんかに分裂させる親って凄いなあ。
 で、上記二つから私がまず感じたのは、
「この人、戦争時代を生き抜いてその理不尽さが痛いほどわかってるから、こうした漫画の中でどれだけ意味の無い争いが理不尽かってことが言いたい」
というか、言いたくなくても滲みでてるなということ。
 
水木しげるもそんな感じだよな。
 戦争にいって、腕なくして、戦争がどれだけ無意味かってこと知ってる。だから、ゲゲゲの鬼太郎の中にはいやってほど「放射線」だの「原爆」だのって言葉が出てくる。そういう言葉を意識的にしろ無意識的にしろ使ってしまうあたりに、戦前の人だなと感じられる部分がある。
 彼にとって「原爆」というものは、良いにつけ悪いにつけ全てのものを粉砕し無にしてしまう印象があるんじゃないだろうか。でかい妖怪が出ればすぐ「原爆落とそう」だもんなあ。後先考えろよ。
 だからとりあえず、手塚さんって複雑な中身の人ではないかとは思うのです。
 いろんな漫画家が彼のことを神様だと思ってる。絵が上手いからとか。
 私としても、絵は別にどうでもいいが、あれだけの種類のジャンルを一人の人が生み出したという点では尊敬に値するとは思っている。生み出したところで面白くなければ意味ないんだけどね。
 残念ながら今のところ、そこまで魅力的な作品は読んだこと無いです。
 で、
「奇子」に戻ります。
 これはもろに、戦後の話。
 戦前戦後を通して、日本人の駄目なところを題材にした、一種の怪談話だと私は思う。とりあえず「完璧なヒーロー」の出てこない青年漫画です。
 で、最初にはっきり断っておきます。
 私はこの話を気になって買ったものの、面白いとは思えません。
 ただラストの怖さを面白いと定義するなら、そのラストを見るためだけに全部読むのはいいことだと思います。
 時代背景としては戦後まもなく、ある旧家の次男・仁朗が戦地から復員して家に戻ってくるところから始まります。
 家族構成としては、
天外家の家長・作右衛門、妻のゐば、長男の市朗その妻すえ、で、次男の仁朗、長女志子、三男伺朗、次女奇子となる。
ゐばは51歳で奇子は4歳。
 仁朗は「母さん、知らん間に頑張ったなあ」とか言うけど、志子も母も暗い顔をして何も言わない。何故なら、旧家の当主としてここまできた我儘男の作右衛門が、長男の妻に手を出してこさえた子供だからだ。
 市朗は、父親死後に全ての土地や遺産を手に入れることの条件として、妻を父親に差し出していた。
 戦前の家の体制、しかも田舎の旧家、母親ゐばに夫に意見する力は無いし、その行為に対して糾弾する力を持つ者はいない。だからすえはそのまま手篭めにされて、奇子を身篭り産んだ。
 しかし、その子を我が子ということはできず、天外家の末っ子、自分たちの妹として育てていくことになっていた。
 この時点で、舞台となる旧家がいかに腐れて狂っているかが窺い知れる。
 さて、この天外家がさらにおかしくなってくるのは、仁朗が帰ってくるから。
 この人は無事戦地から帰ってきたが、それはGHQの手先となっていろいろ汚い仕事をするという条件のもとの話だった。
 日本に帰ってきてからGHQに呼び出されたりして、ある日、「何月何日何時ごろ、どこどこの駅に来るこういう男を連れてきてくれ」という依頼をされる。意味わかんないね。まあそれは本筋とはあまり関係ないし。
 で、男を連れていき何時間か待たされる。
 今度は帰りにでかい袋を渡され(中には死体)、これを線路においてこいと言われる。
 そいつはアカ(共産主義者)の頭みたいな人で志子の男なのだが、これもあんまり私の本筋とは関係ない。
 雨の夜、仁朗は依頼を遂行し家に帰る。シャツが血で汚れていてとりあえず洗おうと家の台所にいった。
 そこで血のついたシャツわ洗っているのを奇子と、この家の知能の足らないお涼という娘に目撃される。が、2人とも証言を聞くにはあまりにも頼りない奴らであり、あまり問題にはならないだろうと仁朗は思って放っておいた。が。
 事態は急展開する。
 結局仁朗の犯罪がバレそうになったのだ。
 証拠隠滅のためお涼を殺したことがまた事態の悪化を招く。
 警察はくるし、天外家の面子が潰れそうだ。しかも、事実を知っている奇子は殺せず、一家ぐるみで土蔵の地下へ閉じ込める始末だ。
 三男伺朗が必死に頑張り、なんとか奇子を助けてやろう(=仁朗の悪事を暴こう)とするが子供(当時12歳)だから思うようにははかどらない。
 結局親族会議で奇子は死ぬまで土蔵の地下に閉じ込めておくことに決定。
 仁朗も家から出て行方知れず。
 奇子は死んだことになり、この一件はとりあえず権力で潰したりシラを切り通し、一見は平和な生活が戻ってきた。
 勿論この家の女衆・すえやゐばは奇子を出してあげたいし、伺朗もそうしたいのはやまやまだ。けれど、日本の家制度に縛られた、一種の結界の中にあるところでは彼らは何もできない。
 それからのち、奇子は土蔵の中で暮らす。いろんな体験もした。
 そして15歳のとき、奇子は「私は女なのよ」とかなんとか言いだして、伺朗を説得し性体験までしちゃうのね。近親相姦は駄目だとか言うのに、奇子の勢いにおされ、結局伺朗は毎週土蔵の地下で奇子と寝た。あんなにもこの家で一番まともだった彼ですら、どっかが壊れてひん曲がってしまったらしい。
 その後も知らない人が急に入ってきて襲われそうになり、奇子の中では、「外に出たい」から「ここにいたい」という意識に変わってきた。
 で。
 出してあげるという伺朗の意見を拒絶し、奇子は自ら土蔵の下で生きることに決めた。
 結局、作右衛門が死んで、伺朗が兄の目を盗んで土蔵破戒許可を業者に出すまで、奇子は
23年間その中で過ごしたことになる。
 23年ですよ。23年いたのに、体としてはかなり健康体だからびっくりだ。
 妖怪かもしんないよね。
 そこからの展開は更に輪をかけて陳腐な面白味のないものになっていく。
 あれだけリアルに書かれた田舎の閉鎖的社会が、奇子が街に仁朗をあてにしてこっそりでて行ってからのヤクザ社会の様子はちょっと遠くの幻想世界のようだ。
 まあいいけどね。
 自分の素性をふせ、偽名を使って仁朗は23年ぶりに土蔵から出た奇子に人間としての常識とか一般的な生活をさせようと努力する。
 なんつーか、おまえのせいでこんなことになってんのに、偽善というしかない行動だよな。まあそれ以外に彼の取る方法はないんだろうから仕方ないか。
 でも結果として奇子に都会生活は向かない。
 土蔵の、あの狭くて暗い空間に帰りたくて仕方がない。
 奇子は都会で知り合った若い男と結局田舎の、自分の家へと帰ってくる。
 ここからが、ちょっとしたホラーね。
 警察に追われた仁朗は山の中の防空壕もたいなとこに隠れていた。この田舎の医者と、市朗、志子もいる。みんなは行方不明だった仁朗が帰ってきていることを知り、ここに探しに来ていた。それを知った伺朗、そして奇子と連れの若い男も山の中の洞穴にやってきた。
 伺朗はここで親族全員に奇子へ詫びるよう演説をする。
 お涼を殺した仁朗、すえを殺した(殺してたんですよ、省きましたが)市朗、奇子を見捨てて家を出た志子、そして奇子を犯し続けた自分。
 全員で奇子に謝れと迫るが皆謝らない。逆に「こいつなんか生まれなければよかった」とか言うヤツが出る始末さ。
 怒った伺朗は洞穴の入り口を発破して皆を中に閉じ込めた。そして、自分は爆発に巻き込まれ死んだ。
 皆ここから出ようとするが岩盤が脆く崩れそうなので掘って脱出ということもできない。
 結局狭く暗い空間の中、皆が我を失い命を亡くしていく中で、奇子だけが薄い笑いを浮かべてその光景を眺めていた。暗く狭い空間は彼女のものだ。二週間以上たって彼らが発見されたとき、奇子だけが死体の群れのそばで生きて微笑みを浮かべていたのだ。
 ────けども。
 その奇子の微笑みは確かに怖いかもしれないが、どちらかといえばありきたりな最後だとは思いませんか。今まで自分に迷惑をかけていたモノたちがそばで次々と死んでいく。復讐しているようなものだ、彼女にその気はなくとも。
 だから、この、奇子だけが助かった場面は別に怖くは無い。そんなもんだ。
 もっと怖いのは事件が全部収束し、追ってきていた刑事もさあ東京に帰ろうというところか。
 
天外家でただ一人生き残ったのは、作右衛門の妻・ゐば。
 彼女は山の上から自分の土地────天外家の土地を見下ろしている。
 助かった奇子は昨日行方をくらました、という話に刑事はうろたえ捜索願いを出せというが、ゐばは拒絶する。そして、言った。


 
「のう警察のだんな、お互い年をとって時代がかわりのしたなす・・・いまの若いもんはわしらと違うのう。それでええかもしれんのす」
 「天外の家は・・・
わしさえ達者なら、潰しはしねだ


 ・・・怖くないですか?
 私は怖かった。
 この婆さんが23年間生きてたことに驚いたし、影薄くてめっきり出てこなかったから忘れてて、ラストに現れてしめを飾ったことにも驚いた。
 だけど更に驚くのはセリフの中身だ。
 この人、今の若い人は自分たちとは違うから放っておけばいいという。
 その次に「この家はわしが守る」という。
 昔の人だ。家を守ることは大事だろう。けれど、今のこの家の状況で、何を守り育み続けて行くというのか。
 天外家にいて、この人は絶対に幸せではなかったはずだ。
 目の前で旦那は浮気をし、自分の子として私生児を育て、何かあっても意見は取り入れられず、息子には責めたてられ、結局手元に帰ってきた子供全ては死に絶え、奇子すら姿を消した。
 これほどの仕打ちをした家を、彼女は丘の上で確かな声で言うのだ。
 
「潰しはしない」、と。
 彼女の姿はとても弱々しい。80歳近いのだから、体も小さくなりしわしわで腰も曲がり何かをできるようには見えない。実際彼女は何もできなかった。していたのは、毎月仁朗から奇子あてにおくられてくる金を預金していたことぐらいだ。
 彼女は全てを失って初めて自らの存在価値を手に入れた。
 その存在価値が
「家を守る」ということ。
 他に何も無いのだろうか。それで本当にいいのだろうか。戦前の人は戦前の常識に囚われていることはままあるだろう。それを具現化したのが、この「奇子」の中に出てくるゐばだったと思う。


 手塚さんは何を意図してこんな婆さんを登場させたのか。しかも大トリにあんな言葉吐かせやがって。
 ブラックジャックにもこんな婆さんはでてきていた。息子たちは皆家を出て行き、里帰りしてくるのを楽しみにじっと待ってる婆さん。
 婆さんは息子たちが自分のことを忘れているのに気付いてる。邪魔くさがってることを知っている。けれど、昔の楽しかった思い出を抱いて、あの頃のあの子たちが帰ってくるのを待っている。実際は慕ってはくれない。でも子供が帰ってくるだけで幸せなのだ。
 そうした場面を見るのは辛い。なんとなく。自分は親を大切にしてないだろうし、本当にこういう状況になったときを思うと辛い。
 かえってゐばさん。
 この人辛いというより怖かった。
 怖い以外の何の形容があるというのか。
 戦前の全てが彼女に集約されていく様が見えた。多分それが怖かったのかもしれない。


 手塚さんは要するに理不尽さを書き続けていたのか?
 戦前の理不尽さを。
 奇子・文庫版の解説で「手塚さんはムラの人」という話があったけれど、確かにあれだけ田舎の閉鎖社会を書けるのに都会の陰謀を書けないってことは、「ムラ」の人なんだろう。解説のこの部分についてはちょっと感心しました。
 で、ですね。
 私も日本人で、どっちかっていうと保守的な人格であり悪い意味で無口というところからして、閉鎖的なところにいて完結してしまう方が多分居心地いいのだと思うのですよ。
 広い世界は怖いことってないですか?
 果てしなく広いとこに入ってしまうのは、自己を何に依存すればいいのかわかんないし、依存しないにしても確実に自分は不確かになっていくと思う。
 日本人のそうした社会っつうか、人格的なとこをグロく手塚さんは書くわけだ。
 それはある意味日本人というか、「私」の悪いところを指摘し、恥ずべき場所を刺激し、拒絶反応を引き起こしているのかもしれない。
 それは今唐突に思ったことで本当のところはわからないけどね。


 結局手塚治虫の描く人間像はグロくて怖い。
 リアルだからこそ皆この人は凄いと尊敬するのかもしれない。
 けれど私としては首をかしげるのだ。
 今回の結論が理由かどうか、それはわかんないけどね。


かえれ。