京極夏彦アワー
関さんという駄目人間の話
関口巽という名を聞いて何を思いますか。
もう私は駄目人間という言葉しか浮かびません。けなしてんじゃないですよ。最高に誉めてんです。あんなに立派な駄目人間はいない。矛盾した文章ですが。
関口巽(以下、関さん)の鮮烈なるデビューは、京極夏彦自身のデビューとなる「姑獲鳥の夏」の1ページ目から。そりゃそうだ。関さんの一人称の話なんだから、これ。
姑獲鳥の夏はすごく良かった。ミステリィとしては「なにそれ」というオチだったが、それ以外の全てがダイスケ的にもオールオッケーなんで差し引いても「素晴らしい」と言えると思う。
合計9冊でているこのシリーズ、関さんが転がるように堕落していく様がよくわかる。他の方々も少しずつ変質していってるんで(榎さんはある意味阿呆になっていくし、中禅寺はどんどん怒りっぽくなっていく)、それはキャラの方向性が確立したということになるのだろうが、それにしても関さんへの仕打ち、あれは作者がわざとそうしているとしか思えない。
関さんは売れない小説家なんですね。文章で食っていきたいがなかなかそうもいかない。舞台が戦後4、5年たったくらいで、カストリ雑誌という低俗な雑誌にいろいろ寄稿してなんとか日々をしのいでいるという感じですね。一応嫁もいて共働きです。
で、暫定的探偵役の位置にいるのが中禅寺秋彦という人で、趣味が高じて古本屋を始めた感じですか。勿論嫁はいます。
他にも様々覚えきれないくらい人が出てきて、その人たちがまたこんがらがった繋がりをしてきて、あの世界は壊れた箱庭みたいな様相を呈していると私は勝手に思っているのですが、さて本当はなんなんでしょうね。
関さんは最初は、別に普通の人でした。といっても、内向的で対人恐怖症でだまされやすく夢見がちですが(ここまで書くとちょっと自信ないな)、それでも端から見ればきちんと一般的に生活していける普通の人に見えました。
次の話でなんか方向性が違ってくる。
あっち側(どっち側だ)の世界へ凄く行きたがる。
中禅寺の原理不明な力によってなんとなく此岸にたぐりよせられたが、またなんか誘惑があるとパンドラの匣でもなんでも開けて、その中に無理矢理入って「ほう」とでも言いたそうな勢いだ。表情は愉悦とでも言おうか。あっち側に行くことはとても楽だろうから彼の気持ちはわからないでもない。
回を重ねていくごとに、私の中の彼の印象は内気だけれどまだ普通の人というところから、友人には馬鹿にされ妻には迷惑をかけ稼ぎが悪く何か言われると逆ギレしつつくとすぐ壊れてしまう脆い精神の駄目人間という、どこをとっても救いようのないものへと変わっていった。
生物で例えるなら彼の得意とする粘菌?みたいな。
粘菌に例えられる人ってのもそうそういないですよ。どれだけ印象が陰気で湿っているかという見本ですな。
が。
それは私が「関さんについて説明しろ」と言われたとき仕方なく表現する言葉であって、実際私はこの人をけなしたくなぞないのです。けなしてるようにしか聞こえないって?
だろうね。私もそう思うさ。
だって短編集「百鬼夜行 陰」の最終話の彼は物凄かったんですよ。
奥さんが何気にポツリと「寂しいですねえ。犬でも飼いましょうか」と言った一言で他人には絶対にわからない逆上の仕方をした。言った言葉が「それは僕に対する当て擦りか」ですよ。何をそんなに怒るのかって?
奥さんが「赤ちゃんは欲しいけど今の収入やあなたの精神構造を考えると作れやしないから、とりあえず代わりに犬でも飼いましょうよ」と言ったふうに曲解して逆上してるわけですよ。多分。こんな素敵な怒り方する人そうそういませんよ。ビバ!関さん!なんて鬱陶しいんだ、ほれぼれするぜ。
この後彼はなんとなく全てがめんどくさくなって外に出て、川原のところで一人うずくまって、川の水の中にできる渦を見ながら川赤子とかいう妖怪を垣間見てます。そしてふと我に返り「京極(中禅寺の仇名)のところに行こう」と思って眩暈坂(京極堂という古本屋へ続く坂道)を上っていく。ここから姑獲鳥の夏に続くらしい。
私、この作家の罠にはまりました。
短編読み終わった後思わず姑獲鳥の夏を半分くらい読み返しましたから。
ドラクエ3を終えてドラクエ1を懐かしく思う感じ?とでも申しましょうか。分かり難いか。
徹底的に関さんにはまったのはこの瞬間ですね。今までも関さんのいない話はつまんなかった。関さんは一人称で読みやすいからだろうな、と一人で勝手にそう思っていたがどうやら違うらしい。私は榎さん派ではなく関さん系だったわけですよ。
錯覚かもしれないけど、関さんの思考回路はなんとなく分かる。
被害者意識が激しくて、何も言わなくても誰かにわかってほしくて、ともすればあっち側へ流れそうな自分を止めてくれる人が欲しい。そういっているように私には見える。っていうか、こんな意見を作者が聞いたら腹を抱えて笑うんだろうね。てめえこそ曲解もいいところだよって。
しかし、まあ、市場に出て人が読めばその人の感覚=作中人物の人となりになるんだから、黙って我慢してもらいましょう。
で、関さん以外の人はよくわかんないけど、関さんだけは上記のような人だと肌で実感したし、そうなんだと思い込んでいる。
この人って、自分が駄目なところというか、どういう精神状態でなんでこんな不可解なことになってるのかってことは、ほぼ勘付いているはずなんですよね。でも、どうすることもできない。
開き直ってるんですわ。
僕はこういう人間なんだ。それをわからずに愛想をつかすならそうすればいい。僕は鬱の気があって、よく情緒不安定になって、不貞寝してしまう、どうしようもない人間なんだ。まいったか、……と思ってんじゃないだろうか。けれど、開き直ってるくせに、最後までその虚勢をはることはできない。
小心者なんだな。
周りをびくびく見回し、安らげる場所で精一杯の虚勢をはり、外ではなんとか普通のフリをして、それでようやく生きている。
いやあ、分かる気がするなあ。
でもまあ、こういう心理に共感してしまうのはやばいよなと思う今日この頃なのですがね。
しかし本当に関さんは変わった。
姑獲鳥のときはまともな人で、最近の短編における彼は「人として駄目」になってんですよ。作品内における時系列が妙だけど、とにかく変貌していることに変わり無し。
この人の何が一番凄いかって、これほどまでに駄目人間な性格のくせに、きちんと結婚してるし付き合ってくれる友人はいるし、食っていけるだけの仕事はなんとなくあるってことですよ。
この人が生きてんだったら私でも大丈夫って気になりません?
下見て暮らしてるわけじゃないけど、何かの安らぎは持って生きていたい。いくら架空の話とはいえ、こんなにも生きていくのに不都合ばかり抱えている人がとりあえず周囲からの重圧(他人にその気もなくても、多分この手合いは勝手に圧力を感じているはずだ)に耐えて生きているのだ。
そんな彼の生きる姿が私の生きる糧になるわけですな。
関さんの生き様で一番心をつかんだのは「塗仏の宴 宴の支度」の短編の間に垣間見る「警察に捕まってひどい取調べを受け粉々に壊れていく」姿ですよ。
この人の壊れ方、尋常じゃない。
いや、別に多分そんなに特別な壊れ方じゃないとは思うのだが、壊れていくのが様になる人間もそうそういまい。
あの本で最も安らげたのは関さんが壊れていく姿だったんです。
ああ、私もなんだか壊れているみたいだ。
京極夏彦の本を読むとしたら、まず関さんの出てくるこのシリーズを読むことになるでしょう。
私の感触としては、多分榎木津とか京極とか、そういった派手な人をまず気に入るんじゃないかなと勝手に思います。事実私もそうでしたが。
けれど、多分、このシリーズで一番重要なのは関さんですよ。この人いないと成り立たない。京極夏彦本人もどっかの雑誌で、「関口は主役として使うのは向いていないが、妖怪を見る場合にはいい精神構造している」みたいな話してたことあったはず。
あったと思います。言葉違うけどこんな感じだったですよ。
関さんの目から見るから京極がかっこよく見えたのかもしれないし。そうそう。関さんが語る京極ってすごく頼れる感じがするんだよねえ。関さんが勝手に自分を此岸にひきとめてくれる友人だと思い込んでるからかな。
まあいいや。
とにかく関さんが好きでたまらなくなっている今日この頃なんです。
次回作で関さん大活躍ならいいのに……と願ってやみません。