純文学という名のホラー
ホラーって聞くと、一体何を思い出しますか。
最近はホラーやらサイコやらサスペンスやらが嫌っていうほど流行ってて、全く怖いものに対する有り難味ってのが少なくなってると思う今日この頃。
夏だからこそのホラーだろう、なんて思ったりもするけれど、まあ時期的な話はどうだっていいのだ。阿呆な大学生3人組が森で迷子になって恐怖体験して行方不明っていう映画も「真冬にするものか?」と思うが、真冬だからいいのかも。
・・・そう考えると夏が舞台の映画って冬見ないな。暑さを感じられていいだろうに。それとも夏に対する皆様の嫉妬が、無意識的攻撃媒体となりなんらかの形で夏っていう開放的に思えなくもない一季節を封じ込めてしまうのか。
別に封じ込めたからって何か凄いことが起こるわけでもないのだが。
まあとりあえず話題はホラーってことですよ。
昔、ホラーっていうのは何か特別なものだった。
私とホラーとの付き合いは結構長い。
小学生中盤の頃、怪談の類にはまった。怪談といっても昔々からある正統的なものじゃない。坂道でのっぺらぼうに会い、逃げた先の蕎麦屋で再会した、という再度の怪とかなんかそーいうのじゃない。そういうのが映画だとすると、私がはまったのはワイドショー的というか流言めいたものというか。
今でもあるじゃないっすか。イタズラ電話がしょっちゅうかかってくる。番号を変えてもおさまらん。警察に頼んで逆探知してもらったら実は家の押し入れにいた、とか。これは一種の流言、そしてホラーの類。「座敷女」みたいなもんだ。
昔も今も変わらないのは、そういう話がなくならないってこと。
私のときでよく覚えているのは、ドライヤー使ってたら髪を吸い込んでとれなくなって頭半分はげたとかいうやつ。なんか笑える話だ。今なら。
でもあの頃は凄い怖かった。凄い怖い反面不思議でもあった。
吸い込む機能になったら、そりゃドライヤーじゃなくて掃除機だろう。
そんな中途半端に怖い話がごまんとのった児童書を買い集めたのが最初。たった2〜4ページという中で人を恐怖に陥れるとは憎いヤツめと思っていたが、成長するにつれ、何故怖いのかがわかってきた。
なんのことはない。
挿絵が怖かったのだ。
やはり視覚的恐怖は何にも勝る。あ、聴覚的が勝るかもしれんが、今は話の流れなんで忘れることにしておいて。
挿絵は怖かったよ。児童が嫌いな先生を呪い殺すって筋の話で、児童が先生に模した人形の顔をカッターでぐさぐさ切るわけだ。先生はもちろん事故で同じような顔になったよ。
その時の醜い傷だらけの顔がこっち向いてニヤリングしていたらそりゃ誰でも怖がるわ。
まあそんなこんなで意味不明な高額本を買いあさったわけだが、そのうちそんな本から漫画の世界にやってくる。ハロウィンはいいとして、オルフェ買った日には、おまえら何者?って思う。今ならね。
なんつーか、オルフェって小学生の読む漫画じゃなかったよなあ。
まあいい。
そうして漫画で怖がり(りぼんのホラー漫画で怖がってた時期だから、よほどのものでない限り全部怖いし)怪談で怖がりとして私の「ホラー大好き体質」は培われてきたわけなのだが。
・・・思い返すと、今頃になって「すっげえ怖ええ」と感じる小咄があったりする。
読む本はホラーやミステリイ、買う本にも妙なものは多々ある。そうした今までの生涯で「思い返すと怖かった」的な話を考えてみたい。
そうなると既に第一位は決定済みだ。
題名も載っている本も忘れてしまったが、スープ好きの女の子が痩せ細って死んでいく話がそれ。
小学2年生くらいだったろうか。
学級文庫ってものがどのクラスにもあって、その中の一冊が「児童のためのお話・オムニバス形式」のようなコンセプトをもつ本だった。
要するに、同人で言うところのアンソロジー?みたいな感覚で。
世界の名作とまではいかないが、名のない(?)童話作家(外人)たちの夢の競演的な話ですよ。よくあるでしょう。日本の笑い話百選とか。それの真面目な童話版とでも言おうか。
その中でこの話だけは他を圧倒し異様な迫力を醸し出していた。
何が怖いってもう、話の流れからオチから挿絵から。話ごとに挿絵を書く人が違っていたが、これだけなんでこの絵?とつっこみいれたくなるくらい怖い絵だった。
誰かは知らないが知名度は高い絵柄だから、もしかしたら皆知っている人かもしれない。
まず最初にスープ大好きっ娘が存在する。絵的にはぢりぢり頭の太めな女の子。間違っても可愛いとはいえない。そりゃ絵のせいかもしれんが。
そいつはとにかく何が何でもスープが好きで、それ以外の物はなーんにも受け付けんぞこの野郎的風合いの人間だった。創作話によくある極端な嗜好の持ち主ですな。
毎日毎日スープしか受け付けない。ある意味人として生きていく上でやばいのじゃないかとさえ思える勢いだ。親が心配して他のものを勧めるがそちらに傾くわけもない。
が。
唐突に、ある日を境にしてその子はスープを一滴も飲まなくなる。
だからって他のものを口にするわけじゃない。何も食べなくなったのだ。
最初は別段何もなかった。1日2日ぐらいで死にはしない。一週間ぐらいたつと、だんだんと太めの体型が見るも無残に痩せ細ってくる。
挿絵はその1日ごとというか、日を追って痩せていく様をリアルにページ上に展開していった。本当に着実に彼女は細くなり、例えではなく真剣に、彼女は糸状に細くなった。
微妙に高さごとに色が違う。ああこの部分が顔で、ここがいつも着ていたズボンなんだな、という理解の仕方しかできない。
そして最後。
彼女は飢えと渇きの中で死んでしまった。
きゃーっ、怖いーっ。
いやマジで怖い。挿絵がさらに恐怖を引き立てる。
この話は一体何が言いたいのか?大体童話なんてものは一つぐらい教訓を内に秘めて世に出てくるようなもんだろう?それとも私のその認識は大きく間違っているのか。
大体何故彼女はスープがいらなくなったのか。それに関する描写すらないのだ。親に怒られて心配されても飲み続けた鉄の女に一体何があったのかは終ぞ知りえない。
この話で疑問となるのは
@ 何故彼女はスープが嫌いになったのか。
A 嫌いになったとして、他のものは何故食べられないのか
B 親は娘が糸になっていく様を指をくわえて見てたのか
大きくわけるとこんなものか。
結局そんな疑問を探してきても何も解明はされないのだが、解明されない謎があるからこそこの話は怖いのかもしれない。
初めて見て「こんな怖い話みたことない」と多分幼い私は思ったはずだ。
だからもうこの本のこの話は見ないと決意したはず。
実際とばして見ていた記憶もある。が、逆に「これを見よう」と思って本を開いたときもあった。
怖いもの見たさというか好奇心というか、結局のところ「なにやらわからないものにとりあえず惹かれる」というのは人間の性なのかもしれぬ。
というわけで、「私の生涯を思い返す中で怖かった話」第一位はこの「怪奇!スープを拒否する少女(個人的心中における副題)」に決定したのですが、他にも結構空恐ろしい話は存在します。
そんな中でこれはかなり秀逸でイケてる話です。
「ハンカチのうえの花畑」。
題名だけを見る限りには、なんともメルヒェ〜ンな感じがしますね。小さいお友達がわんさか出てきて、繊細で純粋で朗らかでほんわかした印象を多大に受けます。
第一児童書というカテゴリーに属する本なんですから、子供たちが喜ぶというかダークな人々が出てくる話にはあんまりならないでしょう。
「本当は怖い」グリム童話とかそれに似たヤツでも、話自体はホラーな感覚だが登場人物は「可愛いお姫様」だったり「可哀相なおなご」だったり「仲のいい兄妹」だったりしますよね。
感情移入しやすい。肌触りがソフトである。いろんな利点を持ってるんですよ、か弱い可憐な青少年ってのは。
しかし。
ここでハンカチの上に花畑を作ろうとする者は、結婚をそろそろしようかと考える田舎から上京してきてかなり生活に疲れている郵便屋だ。時代は昭和40年あたりで、「空襲で焼けた酒蔵」というフレーズが何かもの悲しさを誘う。
彼は郵便を持っていった先の潰れた酒屋に住んでいる婆さんから「美味い酒の造れる壺」をもらう。婆さんが待ち焦がれていた「息子からの手紙」を彼が持ってきて、その息子は婆さんにすぐに迎えに来てくれと主張しているからだ。壺をここに置いていくことはできない、だから預かってくれと。
しかし、普通出稼ぎにいって金持ちになった息子の方が親を迎えに来るものじゃないか?
「今すぐ息子が来てくれと言っている」といっていそいそと遠くへ行こうとする彼女。
とりあえず最初のミステリーは、婆さん親子の関係であろう。
まあそんなこんなで郵便屋は壺を預かる。「人に見られてはいけない」とか酒の造り方の順序を間違えるなとか言われるが、守れない話ではないし第一そんな変な物にはありがちな戒めである。
酒をいくら造ってもいいと言われ、彼は喜んで壺を受け取って帰宅する。
それから当分の間はありがちな展開を見せる。
まず「酒の造り方」というのは、壺の横にハンカチを広げ「出ておいで出ておいで菊酒造りの小人さん」と唱える。すると壺から小人一家が現れて、5人で菊の苗を植えていく。ハンカチ一杯にうえおわると、しばらくしたら菊が育っていろんな色の花が咲く。小人たちはその花をかぶっている帽子へ楽しそうに摘んでいく。で摘み終わったら壺に帰っていくわけだ。
残った菊の茎は息をふきかけて消し、後には壺の中になみなみと菊酒があるばかり。
そんな行程で造られる酒は滅茶苦茶旨く、勿論郵便屋は思い出してはこの酒を造って飲んでいたというわけ。
が、彼にも大きな誤算があった。
結婚なんかしないしないと言っていた彼、あっさり花屋の若い娘と恋愛結婚、あっさり菊酒造りの現場を押さえられてしまう。
「大変だ、約束を破ってしまった!」とあせるが、妻の「私が黙ってれば万事OKじゃん」という軽い言葉に納得し、別段変わったこともすぐには起きなかったため、これは二人だけの秘密ということで旨い酒を堪能していくことになる。
が。
人間、欲望というものは止められるものじゃ全然無い。
むしろ溢れ出てしまって困ることはいくらでもあろう。
秘密にしきれなかった妻は、あろうことか、小人をとにかくこき使い菊酒を売り始めたのだ!かわいい庭のある一戸建てを手に入れるために。
ハンカチ一枚が、その2倍の広さの布になり、ついには机一杯の布に。それ一面に小人は苗を植え狂ったように働かされた。そりゃ菊を植える量が増えれば酒の量も増える。たくさんの副収入がある。単純な話だ。
この妻、とにかく欲に目がくらんで狡猾に夫にばれないように酒を造っては売る。
それでも当初は別段怖いことは起こらなかった。
そんなある日、郵便屋はあの婆さんのいた酒倉の前を通って唖然となる。
あの倉が取り壊されなんか鉄筋の新しい建物が立ちつつある!
家に帰って妻に話すと、「なんだ、じゃあこの壺は私らのものじゃん」と言って、今まで自分が行ってきた悪行と金のたまった通帳を見せた。
郵便屋は驚いたが、「ま、いいか」ということで今度は二人でせっせと稼ぐことにした。それでも利益ばかりを貪るけにはいかないので、小人たちにはなんらかのプレゼントをした。服や帽子や靴、そして小さな小さなバイオリン。
小人が弾くサイズだからそりゃ小さいものだ。夜なべして作ったんですよ。
小人たちは喜び、一家は菊を摘んだあとそれを弾いては踊った。そして踊りながら歩いていき、テーブルから出るところで全員がフッと消えていなくなってしまった!
二人は焦る。
本当は悪いことしていて、そのせいで小人たちが消えた。帰ってこない。巨大な暗い塊がずしりとのしかかってくる感じ?どーしようと悩む。
そんなこんなしてると、酒倉跡地には立派な酒屋が立ち始めていた。
なんだ、婆さんと息子はきちんと帰ってきてて、しかもここで改めて商売を始めようとしてるんじゃないか。じゃあ、いつかきっと婆さんはこの壺を取りにくる。その時にこれまでのことがバレたら?っていうか小人いないんだからバレるじゃん。本当は自分はこれを預かっていただけなのに・・・。
なんかもう、こんな後悔というか焦燥というか人間の暗い部分にまみれた児童向け文学というのも凄いと思う。
きっとこの二人不安で夜も眠れなかったと思うよ。夜中に小便もらして右往左往する小学低学年並みに困ってただろうね。
結局そんな重圧に耐え切れなくなった二人は、酒で貯めた金を使い、郊外の一戸建てへ引っ越すことにした。
そこから、これまでの精神的な不安とは違う、よく考えると怖い世界が広がっていく。
二人は自分たちの一戸建ての家へ電車でやってきた。隣に似たような家があったが、周りは全て広い野原。静かで寂しいところだけど、婆さんに怯えて暮らすよりもよっぽどいいと納得し、二人は荷物を片付けてくつろいだ。
隣からは家族の陽気な声とバイオリンの音が響いてくる。
妻は何の気なしに外に出て、お隣さんに挨拶でもしようかと思った。ふと、隣の一家を見てみる。お揃いの帽子を被り、服を着た楽しそうな一家。それはどこかで見たことのある装飾品・・・そう。なんのことはない。
お隣に壺の中の、あの小人一家が住んでいたのだ。
こりゃビビるわ。
妻は夫にこのことを知らせたが、二人の反応は少しさめている。
「隣に小人一家が住んでる。何時の間にか自分たちは小人にさせられていたんだ。悪いことが起きてしまった・・・・それにしても小人と話ができるようになってすごいなあ」
すごいのはお前らの精神構造だろう。呑気すぎやしないか。
それでも小人世界に来たと知り、郵便屋は空を見上げて思うのだ。
空は真っ青だが、もしかしたら、青い服着た婆さんがこちらを見下ろしているだけなんじゃないだろうか、と。
怖い話だ。婆さんはきっとほくそ笑んでいるに違いない。
更に怖いのは、「ここには電車なんてないよ」という小人の言葉に諦めて、郵便屋夫婦が結局このなんだかわからない世界に普通に暮らし始めたということだ。
たまあに「デテオイデデテオイデキクザケヅクリノコビトサン」というフレーズが聞こえるが、まるで意味がわからない。そのうち彼らは自分たちがもともとここに住んでいたのだ、と記憶がなんだか変になり隣の小人たちと仲良く幸せに暮らしていくのだった。
もう毎日踊って遊んで楽しく過ごす。
でも、やはりそこは人間、なんだか生活に不満が出てくる。深層意識の中で何かが主張しているのか、妻はしきりに「隣の一家のようなお揃いの靴が欲しい」とつぶやきだし、郵便屋は郵便の仕事を夢に見始める。
一体何がどうなっているのか?ここの暮らしはこんなに楽しいじゃないか。
何かがおかしいな、変だな、と思いつつ暮らしていくが、ついにそれも終わりの日がやってくる。
おそろいの靴を履いた彼らは思い出したのだ。
自分たちはどこから来たのか。
ここがどこなのか。
そして、遥か彼方に見える濃い霧の向こうは、ハンカチの外なのではないかということ。
二人は走り出した。今までの幸せな生活はもういい。とにかくこの、ハンカチの上の小さな世界から抜けることだけを考えるんだ。
一生懸命走った。そして、走り出た先は 新装開店した、あのお婆さんの酒屋の前だった。
にこにこ笑った婆さんの膝の上には、小さな可愛いハンカチが広げられている。
「何にしましょうか。お酒ですか、ビールですか」
と問う婆さんに彼らは何もいうことができず、そっと店を出ます。外には路面電車がいつものようにゴーッと走っているだけでした。
・・・こういう話なんですけど。
そこはかとない恐怖を感じるのはおかしいでしょうか。
導入の婆さんの態度は明らかに不自然。妻が繰り広げる悪徳商売は、人間の腹黒さという点でちょっと怖い。異世界なのにすぐ馴染まされる世界観が恐ろしい。
そしてやはり極めつけ、ラストのただ静かに笑っている婆さんは、この世の全ての恐怖に値する。
全てを知っているのかいないのか、この人が全ての恐怖を操っているのか、この夫婦無事に日常に戻ってきたとして、果たして平穏な日々を暮らすことができるのか。
いつまた何時あの婆さんの恐怖が身に降りかかるかわからないのに。
これは本当に、いろんな意味で教訓がこめられた話だとは思います。嘘をついてはいけない、約束は守らなければならない、隠し事や悪だくみは駄目だ、等等。
でもなあ。
そんなことより、人として生きていく時に経験する恐怖、ホラーよりもホラーな世界が両手を広げてほくそえんでいるように見えるんだよなあ。
教訓にするならまだしも、これを見習ってたりしたら大変だぞ。
しかも「全国学校図書館協議会選定 必読図書」に選ばれているという事実が更にホラーだ。その上1981年当時で既に22刷に到達しているってことは、私がこれを見るはるか前からこの本は存在し、幼児たちに人間の暗黒面と恐怖を提供してきたのかと思うと戦慄を禁じえない。
これ、挿絵は別に普通なんだけどね。童話にありがちなぼやけたふわふわした絵とでも言おうか。
要するに小説もどきなわけで、挿絵はあまり多くない。あっても別に怖いわけじゃない。
ただ淡々とした文章が怖い。
そういう話です。
いろいろな漫画や本を読んできたけれど、怖かった、という感想で印象に残る話は割と少ない。某リ○グとかいう話も聞くほど怖くなかったし、伊藤潤二の漫画は怖い以前に笑えるしね。
まあ結局のところ、どんなに挿絵が怖かろうと、話を恐怖仕立てようと、人間の内面に眠る欲望云々の怖さには勝てないってことですよ。
「ハンカチの上の花畑」はそんな教訓を与えてくれました。
今結構「怖い童話」が流行ってるじゃないっすか。
グリム童話とかそんなメジャーなものでなく、ごく身近の日本人の童話から怖いものを探すのもおつなものですよ。ポイントは、「怖い話として書かれていない」ということ。挿絵でホラー度アップしててもいいですね。
児童書もバカにしたもんじゃないって感じで。
終わり